ササキはそのとき、オフィスを抜け出して、トイレの個室で惰眠を貪っていた。
「おい!ササキ」
ハヤシからの怒気を含んだ声は止まない。
声は空気いすに腰掛けながらハンドグリップをにぎにぎしているヤマダに向かっていた。
ヤマダはハヤシの視線を感じると、「はい?」と間抜けな声を上げて、振り向いた。
「おい!ササキ」
ハヤシはササキと間違えてヤマダを呼んでいるらしい。
それも無理からぬこと。
ふたりは見た目がどちらもフランケンだったのだから。
ヤマダはおどおどとハヤシのところに赴くと、「な、なんでしょうか?」と言った。
「これ、得意先のナカジマさんに届けてくれる?きっとお前の姿を見たら驚かれると思うけど、彼はそういう武勇伝が大好きなお方だ。お前の勇敢なエピソードを遺憾なくアピールしてくれ。決して粗相のないようにな!」
ヤマダは自分はササキではないと、そのとき主張しようと息を吸い込んだ。
しかし、思い直して止めた。
逆に、これは大チャンスと思ったのである。
あの憎きササキに意趣返しをする絶好の機会だ!と心の中でほくそ笑んだのである。
「分かりました」
ヤマダは急にササキの声音を真似て快諾、東京から埼玉まで退院後の傷む身体を酷使して、得意先のもとへ参上した。
「どーも、どーも、どーも」
得意先の担当者は、笑顔満面現れたが、ヤマダの姿を見るとサッと顔色を変えた。
今までトレーニングに励んでいたのだろう、汗に濡れたスエットスーツを透かして身体の凹凸が浮き立って見える。
「すみません。ササキでございます」
「ああ、ササキさんか、どうしたんですか?」
「ええ、ちょっとトレーニングしていたら、ハッスルしすぎて、全身に火傷を負ってしまいまして……」
目の前のナカジマはハッスルしたことと全身に火傷を負ったことの因果関係がよく飲み込めず、いまいち驚けないのだったが、沈黙が怖かったので、「ほほう、そりゃあすごい!」と大げさに驚いて見せたのだった。
「ええ、まあ、ははははは」
笑いはしだいにフェードアウトし、やがて沈黙の中に消えた。
沈黙に冷やされるように、ナカジマの顔から徐々に笑みが消えていった。
「あの!」
その笑みがすっかり消えてしまわないうちにヤマダはとっさのひと言を発した。
「はい?」
ナカジマはビクッとして目を丸くした。
ヤマダはいきなり彼の手を握ると、「ちょっと見せたいものがあります」と言って、トイレまで彼を連れて行った。
トイレの扉を入ると、ナカジマを壁際に押し付け、「すみません、見せたいもんがあるんです」と息せき切らせながら言いながら、股間のあたりの包帯の隙間をゴソゴソ探り、萎びたイチモツを引っ張り出した。
それを見たナカジマは、一瞬、「あれ?そんなところにミミズ?」と思ったが、それが徐々に明確な形状を取るに従い、彼の顔は恐怖で歪んだ。
その忌まわしいものは、彼の股下に押し付けられ、屹立しドクドクと脈動しているのだ。
「ちょっと、あんた、何を考えているんだよ!」
ナカジマはヤマダを押しのけ、トイレの外へ逃げ出した。
ササキが得意先で破廉恥な行為に及んだといううわさは瞬く間に社内に広まった。
「あのササキさんが!?」
という人もいれば、「やっぱり!」という人もいた。
当のササキはというと、すっかり落ち込んでいた。
「おれがやったのではない!」と訴えても、ハヤシは「いや、お前がやったんだろ?」一点張りで頑として意見を聞こうとしない。
ハヤシは表面上はササキを応援するフリをしながら、内心は一刻も早く排除したくてうずうずしていたのだ。
彼の驚異的なパワーと敏捷性の前では自分は赤子も同然であり、したがっていつでも自分の地位を脅かす存在となりうるからである。
ヤマダがやらかしたのであろうことは明白だった。
しかし、誰もそんなことを指摘する者はいなかった。
他の者もハヤシと同じく、自分の地位の安泰こそ第一の関心事だったからだ。
ヤマダよりもパワーで勝るササキを蹴落とすことが先決事項だったのだ。
ある日、社内の掲示板に次のような公示が掲載された。
「コンペのお知らせ。第八十二回東京モーターショー展示ブースデザインコンペ。クライアント:凸凹自動車株式会社」
社内はにわかに色めきたった。
世界の凸凹自動車の仕事を取ればその受注額は計り知れない。
コンペ参加を表明した者は、十名。そのうち六名は、参加者の中にササキとヤマダがいるのを見て辞退した。
コンペに先立ち、社内で四名の挑戦者による社内コンペが開催された。
社内では四名のうち誰が勝利するかで賭けを行う輩もいた。
一番人気はササキ、二番人気はヤマダ。他のふたりに賭ける者はひとりもいなかった。
社内コンペの当日、勝敗はあっさり決した。
トーナメント戦でササキとヤマダが決勝戦へと駒を進め、ササキが圧倒的なパワーとスピードでヤマダを下したのだ。
壮絶な敗北を喫したヤマダは試合後にまた一段と巨大化したが、それはただ身体を覆う包帯の量が増えただけの話に過ぎなかった。
「いよいよコンペですね。どうですか、調子は?」
ドクター・キムラは満面笑顔でササキに尋ねた。
「先生さすがです、身体の奥底からマグマのように力が沸いてくるようです」
ササキは、クスリによって途方もない力を得ていたのだ。
「明日は絶対に負けられません。一番強力なクスリを処方してください!」
「それは、大変危険です。これ以上クスリに頼ると、筋肉の細胞が破壊されてしまいますよ」
「かまいません。お願いします」
コンペ当日、並み居る挑戦者の中でササキだけがひとり異様を放っていた。
肥大した力瘤によって腕や足はみたらし団子のようになり、充血した眼は眼窩から零れ落ちるほどにむき出しになっている。
最早人間離れしたその肢体に誰もが恐怖の眼を見張った。
コンペ主催者でさえ、近寄るのが憚られた。ササキを見て棄権する会社が続出した。
果敢に、というか無謀にもササキに勝負を挑んだのは、大手広告代理店T社の社員サトウだった。
一般的には彼もそうとうマッチョであった。
しかし、ササキの前では、赤子も同然だった。
ふたりはリングに上がり、ゴングを待った。
ササキの鼻と口からはシューシューと妙な色の煙が蒸気のように排出されている。
過度のクスリを服用したために身体の中で禁断症状が生じているに違いなかった。
彼は本当に人間なのか、もう他の生物になりかかっているのではないか、とヒソヒソ囁き交わす声が会場内にさわさわと流れた。
カーン!
ゴングが鳴った。
サトウは必死に恐怖心を押し殺して、ササキに跳び蹴りを食らわせた。
ササキはその衝撃で少しよろけたが、すぐに体勢を整えて、サトウの首をガッシリつかむと、ブルンブルン振り回しはじめた。
「お……お、お……お」
ササキは悦楽に浸っているようにうっとりと目を細めて、切なげな声を上げた。
「だあー!」
雄たけびとともにサトウは遥か上空に向けて放り投げられた。
瞬く間に、その身体はみんなの視界から消えて見えなくなった。
数秒でササキの勝利が決定した。
社長は万歳をして喜んだ。
ヤマダをはじめ社員たちは面白くなかった。
「よかった!これで十億円がうちに入ってくるぞ!」
社長がササキの直属の上司を褒め称えて言った。
ハヤシは「ありがとうございます!」と言ってニヤリと笑った。
社長の掛け声で、みんなササキのところに駆け寄り、彼を胴上げした。
彼から発せられる異臭を嗅がぬようにしながら。
「勝者、ササキさん!」
主催者から勝者の名前が告げられると、場はいや増しに盛り上がった。
「それで……」
凸凹自動車の社長が突如マイクを通して声を発した。
みんなはそれを聞いて一斉に胴上げを中止し、社長の次の言葉を待った。
「それで、御社は何を提案してくれるのかね?」
場は一気に静寂に包まれた。
提案内容がどうのという問題を真剣に考えてなどいなかったのだ。
ただ、筋力のアップだけに励みながらこの日に備えていたからだ。
ササキの脳内細胞はクスリのせいで破壊され、脳がすっかりパアになっていたといってよい。
マイクから発せられるキーンという音だけが会場に響いている。誰も何も言えず、ただ、ササキが何か言うのを待っていた。
五分ぐらいの沈黙のあと、ようやくササキが自分の発言が待たれていることに気づいたのか、口を開いた。
「さあ……」
ヤマダをはじめ、社員たちは小気味よさに顔を緩めた。
企画はまた後日提案するということでその場は解散となった。
パアのササキは単なる筋肉馬鹿だから何をしでかすか分かったものではないということで、ビルの地下室に監禁されることとなった。
社長はわずかばかりの同情心からドクター・キムラに更正をお願いしたが、キムラは「ちょっと勘弁してください」とひと言できっぱりと断った。
キムラは自分の開発したクスリが引き起こしたことの顛末を少しは反省していたが、誰かに謝ろうなどという気は毛頭なかった。
誰が企画を作るのかを内部で喧々諤々議論しているうちに、会社にとっての非常事態が出来した。
ぐずぐずしているうちに大手広告代理店T社が抜け駆けして企画を凸凹自動車に提案したというのだ。
「許さん!許さんぞ!」
社長は激高して叫んだ。
すぐに社員全員が招集し、檄を飛ばした。
「いいか!T社を滅ぼすんだ!」
「おー」
「十億円を取り返すんだ!」
「おー!」
「十億!十億!十億!」
「十億円と言えば、ソープランド50分が9,800円だから、えーと、えーと、えーと、……」
そう言った社員は懐から電卓を取り出してパチパチボタンをはじき出した。
「十億円で279年間毎日行けるぞ!」
「おー!」
その計算結果が瞬く間に全社員に広がり、大歓声を巻き起こした。
「ソープランド!ソープランド!ソープランド!」
279年も生きられるわけがないなどという判断も下せないほどにここの社員の脳細胞は駄目になっていた。
マッチョな男たちのせいでどれだけ多くのソープ嬢たちが滅茶苦茶にされてきたかなど慮るべくもない。
社員は、一斉にダッシュをかけ、T社に急いだ。
T社に着くと、リーダーに抜擢されたハヤシの号令で、ビルの中に突入、次々とT社社員を殴り倒し、部屋を占領していった。
しかし、敵も然る者、業界最大手のT社には2万人あまりの従業員がいる。
およそ50倍の数である。
多勢に無勢。
形勢逆転にはさほど時間はかからなかった。
T社の中でも特に屈強な者達によりあっという間に突入した社員たちは叩きのめされた。
そして、彼らは逆に侵略者たちの居城目掛けて進軍をはじめたのである。
社長は頭を抱えた。窓外にT社の社員たちがビッシリと取り囲んでいるのを見て、ガタガタと膝を震わせた。
「神よ!神よ!神よ!」
念仏のように唱えていると、一閃のひらめきが脳裏をよぎった。
「そうだ!ササキ!」
社長室を飛び出し、地下に駆け下り、封印しておいたササキの部屋の扉をこじ開けた。
かびとほこりにまみれたササキが目を爛々と輝かせながら座っている。
ササキは恐ろしく臭い息を社長に吹きかけると、ダッと駆け出し、ビルの外に躍り出た。
「うががががあ」
ササキの雄たけびが木々をビルを揺らした。
彼は両手を地面につき、獣のように走り出した。
もう彼を止められる者はいなかった。
彼に衝突するあらゆる物が一瞬にして大破した。
もうビジネスもくそもなかった。
他人を殺し、生き延びさえすればそれでいい。
「ソープランド、ソープランド、ソープランド」
さきほど見事な計算をやってのけた社員は、自身の身に終わりが近づいていることなど知る由もなかった。
もうすぐそこまでササキは迫っていて、もうあと10分もすれば、彼を踏み潰して駆け過ぎて行くということなど。
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